「I can speak」~「トカトントン」~「斜陽」ー青空文庫に救われて1ー
2018年 12月 09日
最後というか「斜陽」を入れたことで、すぐに分かりますね、何のことか。
まさか、自分が太宰治について書く日が来るとは思いもしなかった。
前項で、今の私は本は図書館で借りるということを説明したが、図書館も本屋と同じで、行きなれている所ではないと、本を見つけにくい。
又、昨今は便利なもので、ネットで自分が借りたい本を予約でき、取りに行きたい図書館も指定できる。
しかし、私ごとになるが、私が通い慣れている図書館は、実は今私がいるところから近くはない。
まあ、それにアマゾンでも本は買える。
キンドルでも携帯でも本は読める。
百本ノック中の身である私の中に浮上している問題はそういうことではなく、読みたいと思う本がそこまでなく(じゃあ読まなければいいと思う人はどうぞ思って下さい。)、
それでも自分の中から枯渇していゆく(元々その存在さえもないのだろうが)、言葉の羅列を求める焦燥感からなのか、何かを読まなくてはと私の心がせわしない。
そんな時に、丁度、仲のいい友人と、青空文庫の話しになったので、10年ぐらい前に結構はまったけれど、最近はご無沙汰だったと思い、青空文庫へいった。
個人的な見解になるが、青空文庫は現在の日本において賞賛に値するべき賜物であると思う。
ああ、素晴らしい青空文庫。
ベッドでヘナヘナしながら、頭の隅にある、すぐに私めがけてくる次の球や、打ち返しはし
たものの、中途半端に浮遊し、地面に落ちて拾わずそのままにしている球のことに邪魔されながら、携帯で数々の偉大な作品をこれでもかと吟味ができる。
森鴎外、夏目漱石、谷崎潤一郎等は、昔、一通り読んでいたし、今の私にはこの人たちの小説は「長い」。随筆はいいけれど。
かと言って林芙美子や宮本百合子などの女性が書いたものは今は読みたいと思わない。
そういえば、たまたま読んだ三浦環さんの「お蝶夫人」というエッセーはよかった。
そんなんで、心ここにあらずな私であったが、意味もなく有島武郎、高村幸太郎、志賀直哉、魯迅、オスカー・ワイルド等を読み返しながら、じゃあ太宰治でもと、、、という流れになった。
あと二人程の有名作家がいるが、それは次に続く
ー青空文庫に救われて2、3-にて述べる。
別に自慢でもないし、威張っていうことでもないが、太宰治の幾つもの主要作品も学生の頃に読んではいた。
それなりに感想もあったり、読んだ後に考え込んだとは思う。
「人間失格」は、文句なく名作であると思っていた。
別に嫌いではないし、一般的に言われている彼の「退廃的」な生き方は理解できるし、
そこから数々の名作が生まれたから、いいではないかと思う。
今から書くことは、私のことをよく知っている方々からしたら「やっぱりな。。」の一言につきると思うし、実際に友人は笑いながら「marikonちゃんって本当に分かりやすい!」と言った。
では言わさせて下さい。
いやー「斜陽」も最高傑作の一つですねーー!
いや、もっというならば、最後の直治の「遺書」が素晴らしい。
30年前に読んだ時には、どちらかというと三島由紀夫などから、本当の貴族の言葉使いとは違うと言われた太宰治が描いた「斜陽族」なるもの、そしてお姉さんやお母さんのことなどの方が印象に残ったと思う。
もちろんこの「遺書」のことも覚えていた。
あえて書こうとは思わなかったけれど、なぜなら私のブログを読んでくださっているのは、私よりも高尚で知性がある方々なので、一々説明する意味もないけれど、
たまに訳の分からない人々も読んで勝手に解釈(それはその人たちの勝手なのだが)してしまう場合があるから言っておく。
太宰治がその作品中の最後に書いた「遺書」(本人ではなく物語の登場人物の)が、
素晴らしかったからと言って、私がそれに感化されて自殺するとかではありませんから。
特に「死にたい」とも思っていませんから。
短絡的にしか物事を考えられない人たちっているんですよね。。。。
これも多くの人々が言っているが、この「遺書」には、生と死の両方があり、人それぞれの「選択」なだけであるということだ。
冒頭で、今の私は本屋で本を買わないと書いた。
昨今では本屋さんがビジネスとして生き残るのは大変らしい。
そのビジネスの存続の為に、本は本屋で買うという人たちもいる。
それはそれでいいんじゃない?と思うし、そのお金の使い方を誉め称えて欲しいなら、
称えはしないが、「偉いですねえ」と褒めるであろう。
ただ、昔の自分ー毎日本屋さんに行っていた、毎日ではないけれど、惜しみなく本屋さんで自分が読みたい本は全て買っていたーを振り返っても、私はそんな風に思ったことは一度もなかった。
単に本が読みたいからだった。
ただ今のようなネットで何かが出来て読めるという時代ではなかったというのも一つの要因かもしれない。
(実はもう一つの理由がある。もう一つのブログで以前書いたことがあるので後日ここに張り付けます。)
私こそ短絡的ではないかと言われればそれまでだが、廃れてゆくビジネスはある。
それは仕方がない。
ただ、今の時代本屋さんをビジネスにした場合に成功例もあると堀江貴文が言っていた。
だから、何に関しても「やり方」はあるのだろう。
青空文庫は無料だ。
ボランティアだ。
それでもそういう人たちが、日本だけではなく世界の名作をただで気軽に読めるようにと
これから先に続く未来に残してくれる。
例えば、森鴎外を読んでみたが、今いち進まないという場合に、では夏目漱石はどうだろうと他の作家にすぐに変えられる。そしてもし夏目漱石の他の作品も読みたくなったら、すぐに他の作品が読める。
話を太宰治に戻すと、彼は「彼は昔の彼ならず」で
「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。せいぜい真似るだけだねえ」
と書いている。
青空文庫の人は
「 青空の本は、読む人にお金や資格を求めません。いつも空にいて、そこであなたの視線を待っています。誰も拒まない、穏やかでそれでいて豊かな本の数々を、私たちは青空文庫に集めたいと思うのです。 先人たちが積み上げてきたたくさんの作品のうち、著作権の保護期間を過ぎたものは、自由に複製を作れます。私たち自身が本にして、断りなく配れます。 一定の年限を過ぎた作品は、心の糧として分かち合えるのです。」
と言っている。
「自殺」を選んだ昔の有名作家たちの名前をここで羅列しても仕方がない。
みなそれぞれの意志の元なのだし、その人たちの人生だったのだから。
「自殺」を選んだ人は、あの世で報われないとか、苦しむとか言われたりもするけれど、
そうとも限らないと私は思う。
なぜならそういった偉大な人たちは、私たちに「空」を残してくれた。
見上げる「空」、
そして自由に読める「空」を。
もちろん、その「空」の継続を実現したのは青空文庫の方々だ。
本当に少し前には実際に存在していた美しい日本語、そしてそういった言葉で綴られた多くの物語や随筆、そして作家たちの人生、
今の私たちにはそれらが綺麗に沢山並べられた贅沢な「空」がある。
苦しくなったら、この「空」を見上げればいい。
(少なからず私は。)
素晴らしい青空文庫、
そしてありがとう青空文庫。
アメリカなんかに負けないで!
世界なんかに負けないで!!(だったらおまえも何とかしろって思われますが)
続く
# by marikon1220 | 2018-12-09 11:41